あるシンポジウムで、児童相談施設の職員の人のお話を聞いたのだが、その中に素晴らしい例があったのだ。
ちなみにこの方は「セラピスト」ということだった。セラピストの日本語訳もいろいろあるようだが、この場合は心理療法士ということらしい。
で、その「上手なほめ言葉」は、「すごいね。どうやったらそんなふうにできるようになったの?」というものだった。
その方が言うには「よく頑張ったね」とか「上手だね」とか「素晴らしいね」というのは、表面的なほめ言葉であって、ほめられた子供には強く響かないらしい。親が自分の子供をほめる場合にはそれでもよいそうだが、指導にあたっている人間が使うには稚拙なほめ言葉だそうだ。
授業実践の記録を掲載しているサイトも多いが、それを見ると「いいね、いいね」とか「おっ、それは素晴らしいね」とか「きれいだね」などを連発している授業例も多い。たまに言われるのなら、言われた子供も嬉しいだろうが、(セラピストの方の言葉だと)あまり連発すると逆効果になることもあるそうだ。
昔の殿様ならば、自分の家来をほめるときに「あっぱれ、あっぱれ」ですますことができただろう。言われた家来のほうも、それで十分に満足だったろうと思う。
身分の区別がはっきりしている場合には、いわゆる「上の人間」からちょっとほめられただけでも効果があるのだが、教師と子供の人間関係は何十年も前のような「目上の教師・目下の子供」という関係ではなくなっている。「教師は子供よりもずっと上の立場だから『すごいね!』というだけで十分にほめたことになる」という考え方を持っている教師がいたとしたら改めたほうがよいだろう(^^;)
余談めいたハナシになるが、私が大学生の頃、アマチュアロックバンドをやっていて、プロのロックバンドのコンサートの前座をやることも多かった。コンサートが終わった後、打ち上げでプロの方と飲んだりすることもあったが、そのときに「君たちのバンドもなかなかいいね」と言われると嬉しかったものの、それだけでは社交辞令のように感じた。たまに「プロになりたいのであれば、ウチの事務所に連絡してほしい。連絡先は‥‥」と名刺をもらったりすると、本当にほめられているように感じたものだ。
大人でも、単に「いいですね」と言われるよりも、具体的な何かがあったほうが嬉しいのだから、子供ならなおさら「自分の行為がちゃんと認められている」と自覚できるようなほめ言葉が有効であろう。
さて、例にあげた「すごいね。どうやったらそんなふうにできるようになったの?」だが、このほめ方が素晴らしいのは、ほめられた人間に自己の行為を振り返らせるところにある。
ほめるということの目的は、自分の行為を有用感を認識させ、次の活動への意欲を増大させることにある。ただ単に「いいね、いいね」とか「上手だね」だけでは、精神的な満足感を与えることはできるかもしれないが、ほめられた人間が自分の行為を振り返り、そのやり方を他の活動にも生かすようにするには、その人間の個人的な内部の精神活動に期待するしかない。受け取る側がちょっとひねくれた受け取り方をしてしまえば「また、そんなおべっかを言って‥‥」という感じ方をすることにもなりかねない。
ところが「どうやったらそんなふうにできるようになったの?」と言われたら、それに答えて「こうやったらできるようになったんだよ」と言うかどうかは別にして(謙遜して『そんなことは‥‥』と言う場合もあるだろうから)、自分の心の中では、「そうか、あれをこうしたからできるようになったんだな‥‥」と振り返ってみるに違いない。
これは完全にほめることの目的に合致する。他者(教師)からほめられたという満足感だけでなく、「自分はこういう努力をして、こういうことができるようになった。それが他の人にも価値ある行動だと認められた」という認識を持つことができるからである。
このほめ方は、いろんなバリエーションで活用できるだろう。「今の発表のしかたはよかったね。どういう工夫をしたら、こんなにわかりやすい発表にまとめることができたの?」とか「こんなにたくさんの資料をまとめるには大変だったろうね。どういう方法で資料を集めたのかな?」等々である。
自分がそのために努力をしたのであれば、それが認められたという感じを持たせることができるし、それほど苦労をしないで何気なくやったことだったとしても「自分が何気なくやったあのことが良かったんだな」と自覚させることができる。ほめられた子以外の子供にも「先生は○○さんを調子よくおだてているな」という感じを持たせないで、「そうか、そういうやり方でやるとうまくいくんだな」と考えさせることもできる。
単に子供の気分をよくするだけでなく、自己の行為を振り返らせ、その方法を自分の得意として自覚させ、自分の存在価値を認識させ、さらに他の子にも学習活動等のヒントを与えるということで、このほめ言葉は完璧だと思う。
ただ、このほめ言葉には問題もある。それは子供のやっていることをきちんと見ていないとほめることができないということだ。子供がやっていることと違うことを、うわべだけ「すごいね。どうやったらそんなふうにできるようになったの?」とほめても、子供は「先生、何を言っているんだろう」としか受け取らないだろう。
「先生はきちんと自分のことを見ていてくれる」という意識を持たせることができるほめ方だけが、子供の心に響くのである。
そういう意味で、このほめ言葉は、たまにしか使えない(^^;)
— 上手なほめ言葉 (via petapeta) (via kml) (via gkojax)
2009-11-05 (via gkojay) (via ssbt) (via hsmt) (via s-hsmt) (via hsmt) (via radionaire) (via haiji505)
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そんな片耳ピアスには、きちんとした意味があるそうです。基本的な意味合いとしては、『右耳=守られる人』、『左耳=守る人」を指し示すそうです。性別的な意味合いだと、男性の場合は、『左は、勇気と誇りの象徴。右は、ゲイの印』で、女性の場合は、『左は、レズの印。右は、優しさと成人女性の証』だそうです。なぜ、そのようになったのかというと、基本的に突然の外敵から身を守るため、利き腕である右側を常に空けておけるよう、男性は女性を守るという理由もあって、女性を左側にして歩いていたそうです。その際に密着するのは、男性は左側、女性は右側。そして、ピアスは男性の装飾品。愛する女性を“己の勇気と誇りを掛けて守る”と言う誓いが、左側のピアスには込められており、対になった右側のピアスを、女性に贈る事でその意志と想いを告げたとか。それを受け取った女性は、愛する男性の“その想いに答える”と言う想いを込め、男性と密接する右側に着け、告げられた想いに答えたそうです。これが『片耳ピアス』の意味合いの始まりらしいです。
他にも逸話があります。その昔、ヨーロッパなどでは、出兵する恋人に対で1つのピアスを片方ずつ身に着ける習慣があったそうです。その際、男性は左耳、女性は右耳に着け、“再び対に戻れる様に”……と、願を掛けて、肌身に着けられない護符(アミュレット)の代わりにしたとのことです。ロマンチックな逸話ですね。
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「装い」ってなんだ?
就職活動、わたしはこのあいだ、初めて会社説明会に行った。とりあえず家にあった妹のスーツを着た。真っ黒で、ウエストは少し締まっていて、ズボンの丈はヒールにかかるくらいだ。ブラウスの襟をスーツの外に出すとエラそうになった。それにかっこ悪いビジネスバッグを持ち、靴好きのわたしとしては考えられないダサさの靴を履いて、家を出た。 会場に着くと、みんなスーツを着て、老けこんでいた。 また、人々全員が同じ服を着るということに改めて気色悪さを感じた。中学や高校の制服だって、好きな刺繍の靴下を履いたり、もう少し自分に合った着こなしをできたものだよ。
自分をアピールしたり、見てもらう場において、全くその人を魅力的に見せない服を着ていくのが常識のこの国は、なんなんだろう。 「服装なんかで自己主張するな」と言うけれど、そういうことじゃない、全くそういうことではない。自分に合った「装い」をするということは、食べたり寝たりするのと同じくらい、全くふつーーのことだ。 今日は面接だからわたしのお気に入りの素敵な飾りボタンのついたブラウスを着ていこう。 と思うことと、 最近ビタミンが足りていないから今日のデザートには果物を食べよう。 と思うことは全く同じことだ。 自分を構成する要素を、自分が気持よく自分であるために、選んでいるだけだ。何の卑しさもない、全くふつうのことだ。
自分ではない格好をして、わたしはほんとう服装同一性障害だった。銀座の街も、ぜんぜんたのしくなかったよ。
— 2010-10-28 - とろけるあめ (via katsuma)
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「アニメオタクの強迫観念とコスプレーヤーの自傷について」
関正樹 臨床精神病理27巻1号2006年4月48P
という日本精神病理学会第28大会演題発表要旨が興味深い。
強迫観念を主訴とするアニメオタクA、
過呼吸を主訴とするするコスプレーヤーB
それぞれに、アニメやコスプレの話題で支持的に接した。
すると、Aの症状は軽減。Bは過呼吸が頻繁になり自傷行為も出現。
理由として、Aは「現実的な虚構」の中にいたが、Bは「虚構的な現実」の中にいたから。
といっても意味不明だが。
簡単に言えば。
「アニメオタク」を支持することは「アニメ好きのありのままのA 」を支持することなので治療的である。
しかし、
「コスプレヤー」を支持することは「コスプレという虚構の世界のB」を支持することで、「コスプレしてないときのありのままのB」は支持してないことであり、反治療的になる。
ということのようだ。
つまり、「コスプレしてないときのあなたも素敵ですよ」というアプローチが治療的ということか。
—
アニメオタクの強迫観念とコスプレーヤーの自傷について - Anno Job Log (via otsune)
キャバクラもそうだけどメイド喫茶やコスプレイヤー、ナンパするときに良く使われる文句だよね
(via sirchronofrost) (via ssbt) (via aya18) (via magao) (via comsmet) (via wonderthinkanswer)
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昔何かの番組でこのシーンのアフレコ風景を見た。宮崎さんが三輪さんたちに「あのね、昔モロとオッコトヌシは恋仲だったの」と耳打ちしたら、その次のテイクで物凄くいい演技になってて、ぞわっとした覚えがある。
— Twitter / てるる (via aoillamahadoko)
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フェルミ推定は問題を要素に分解し、要素を掛け合わせて答えを得るという点で、非線形で反還元主義という複雑系の対極をなすやり方のようにも見えます。フェルミ推定ではそれぞれの要素が相互に作用して、「自己組織化」したり、「創発」を引き起こしたりなどとは考えません。その点シンプルでわかりやすいとは言えるでしょう。
フェルミ自身がフェルミ推定を使って提出したパラドックスに、フェルミのパラドックスというものがあります。これは「なぜ宇宙人がその姿を現さないか」というパラドックスで、フェルミの言葉では「かれらはどこにいるのだろうね」と言ったと伝えられています。実際にフェルミがその通り言ったかどうかは別にして、フェルミは宇宙人が見つからない不思議を他人にも自分自身にも投げかけました。
確かに地球は生命の発生に好条件に恵まれていますが、銀河系には2千5百億個の星があり、宇宙全体ではさらにその3千億倍ほどの星があります。宇宙は生まれてから1百億年以上立っているわけですから、時間をかけて知的生命が宇宙に広がっていけば相当な数の星が植民されていても良さそうです。ところがいまだに、われわれ地球人には宇宙人からコンタクトがないわけですから、何か理由がなくてはいけません。
「きっと宇宙人はいて、きっとわれわれにコンタクトしようとしているはずだ」という信念のもと、宇宙からくる電波を測定して何かパターンを見つけようという試みは今も続いていますが、成果はあがっていません。そのため、
1:もうとっくに宇宙人は到着していて地球人が気がつかないだけだ
2:宇宙旅行は大変でとても難しい(参照)
3:最初の想定以上に地球と同等の条件を得ることは難しい
など、色々な意見が出てきました。1の宇宙人はもう来ているとうのを別にすると、地球環境が実現される条件が厳しいことは近年ますます明らかになってきました。地球と同じような環境というと、水があって、水が液体でいられるような温度と圧力というのがまず考えられます。これはそれほど甘い条件ではありませんが、何万個の惑星に1個というほどきついものではありません。現に太陽系でも火星には液体の水があったことがあるようですし、金星も惜しいところで温室効果で高温化しましたが、少し条件を変えれば水は持てそうでした。太陽系は普通の存在ですから、出発点はそれほど難しくはなさそうです。
ところが、地球に隕石や星がやたらと落下しないためには木星が重要な役割を演じているとか、月の距離と大きさが潮の干満を進化に最適な条件を与えたとか、新しいことがわかるたびに地球のユニークさが際立ってきました。木星はありふれた惑星ですが、月は距離、大きさまで考えると相当稀な存在で、それだけでも何桁も確率を下げてしまいそうです。
フェルミ推定を使って地球にコンタクトできるような宇宙人の住む星の数を見積もると次のようになります。、
N=RxfpxnexflxfixfcxL
N:銀河系にある通信するETCの数
R:銀河系で1年に星が生まれる率
fp:惑星を持つ恒星の割合
ne:惑星を伴う恒星のうち、生命が維持できる環境を持つ惑星の数
fl:生命が維持できる惑星のうち、実際に生命が育つ割合
fi:その惑星のうち、生命が知的能力を発達させる割合
fc:そのうち、恒星間通信ができる文化が発達する割合
L:そのような文化が通信を行う期間の長さつまりfl、fi、fcあたりが思ったよりずっと厳しいようなのです。
もしかすると地球は全宇宙で唯一知的生命を育んでいる星かもしれませんし、他に知的生命体があっても宇宙はあまりに大きくお互い連絡をとりあうのは実質的には不可能なのかもしれません。フェルミの残した最大のフェルミ推定の問題はまだ解かれていません。
— ビジネスのための雑学知ったかぶり フェルミ推定 (via budda) (via zono) (via ukar) (via maybowjing) (via otsune) (via makototz) (via x-117) (via sampler)
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「文学」などというものは気が狂ったか人生を投げた人間がやるものであって、日本のひとはよく漱石や鴎外が文学者として高い地位にあったことをいうが、それは間違っておる。
仔細に見ると、普通人にとっては実は漱石は「帝国大学の学士」なのに小説を書いたひとであり鴎外は最終的には軍医総監に至る選良高級軍人なのにブンガクというものを好きなそーだと面白がられた、というだけのことです。
「文学」は付けたり、というかヘンな趣味のようなものだったようです。
明治、という時代は北村透谷のようなひとですら「出世する」ということが人生における第一の価値であった。
そーゆーことから自由でありえたのは若い女の生活人であった樋口一葉くらいのものだったでしょう。
— 坂の上の雲_「明治時代」は存在したか? - ガメ・オベールの日本語練習帳iii-大庭亀夫の生活と意見 (via starchart) (via akiba) (via over16dayone) (via wonderthinkanswer)
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275 名前:水先案名無い人[] 投稿日:2010/01/18(月) 14:06:39 ID:mdFQr2NqP
ときは8月、黒海沿岸の町。雨にぬれる小さな町は活気がなく、すっかり寂れていた。
人々は借金を抱えて苦しい生活をしているのだ。 その町へ、一人の旅人がやってきた。そして町に一つしかないホテルに入ると、
受付のカウンターに100ユーロ紙幣を置き、部屋を選ぶために2階へ上がって行った。
ホテルの主人は100ユーロ紙幣をひっつかんで、借金返済のために肉屋へ走った。
肉屋は同じ紙幣を持って養豚業者へ走り、100ユーロの借金を返した。
養豚業者はその紙幣を握ると、つけにしてある餌代と燃料代を払うために販売業者に走った。 販売業者は100ユーロ紙幣を手にすると、この厳しいご時世にもかかわらず、つけでお相手をしてくれる
町の遊女に返そうと彼女のもとに走った。遊女は100ユーロ紙幣を懐にしてホテルに走り、
たびたびカモを連れこんだホテルに借りていた部屋代を返済した。 ホテルの主人は、その100ユーロを受け取ると、紙幣をカウンターの元の位置に置いた。
ちょうどそのとき、部屋をチェックして2階から降りてきた旅人が、どの部屋も気に入らないと云って
100ユーロ紙幣をポケットにしまいこみ、町を出て行った。 誰も稼いでないけど、町中の誰もが借金を返し終わり、町は活気を取り戻した。
— 100ユーロ紙幣 続・妄想的日常 (via lunarlunatic)
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三島が大蔵省に勤めていた時、その文才を買われて大蔵大臣の国会答弁の原稿を頼まれたことが何度かあったが、いずれも簡潔明瞭すぎて、解釈が1通りしかできず、没にされた(官僚界の常識として、話の内容を幾通りにも解釈できるようにしてできるだけ言質を取られないようにする、というのがある)。挙句の果てには「笠置シヅ子さんの華麗なアトラクションの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのはまことに艶消しでありますが、……」ではじまる原稿を書き、没にされたことがある。”
-www
— http://retext.orig.jp/text/18657 (via retextlog) (via ssbt) (via tagkaz)
2009-06-12 (via gkojay) (via wonderthinkanswer)
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